2024.11.29


『 結が織りなす絆、自然と共に生き地域と共に歩む 』
冷たい風が頬を刺す初冬の朝、川根本町の文沢(ぶんざわ)へと車を走らせた。川根本町は平成の大合併で誕生し、大井川の流れに沿った南北に細長い地形が特徴だ。面積の約90%を森林が占める。この地域では、林業が古くから人々の生活と深く結びついてきた。
目指すは柿下正寿さんの山。文沢は江戸時代には7世帯が暮らした記録がある歴史ある集落だが、現在住んでいるのはわずか4世帯。そんな小さな集落の中で、柿下家は代々林業に携わり、その歴史は正寿さん自身も正確に把握できないほど古いという。家族の名前には「寿」の字が受け継がれている。
案内していただいた現場の入口には、柿下さんの祖父、万寿雄さんが林地肥培で天皇杯を受賞した記念碑がある。また農林大臣賞受賞の記念碑も寄り添うように建てられている。林業の功績がこうして形となって残るのは、この地域の誇りなのだと感じる。車を降りると、市街地より数度は気温が低いという寒さが身に染みた。人と自然が共存しながら歴史を紡ぐこの地で、柿下さんの物語が待っている。
- 天皇杯と農林大臣賞受賞の記念碑
自然と共に生きる、林業と台風の爪痕
柿下家の山は、スギを主体とした約75haにも及ぶ広大な森だ。柿下さんは森林経営計画に基づき、捨て伐り間伐や利用間伐などを行い、先祖代々受け継がれてきたその森を管理し、守り続けてきた。しかし、令和4年の台風15号がその営みに深い爪痕を残した。
「こんな嵐は生まれて初めてだった。」と柿下さんは振り返る。夜9時頃から夜中の2時過ぎまで激しい雨と雷が続き、川が増水。集落は1週間以上の停電と孤立化に見舞われた。柿下さん一家は1年8か月もの避難生活を余儀なくされた。今年5月、ようやく家に戻ることができたが、今も避難を続ける住民もいるという。
台風15号は、柿下さんの林業にも深刻な影響を与えた。柿下家の山に通じる主要な林道「文沢線」の路肩が崩壊し、通行不能となったのだ。この道は木材搬出の生命線であるため、木材を伐採しても搬出することができず、山の管理すらままならない状況が続いている。林道の復旧工事の着工は令和8年度以降の予定で、再び通常の作業ができるようになるには長い時間がかかる。
「台風以降、林業のサイクルが狂ってしまった・・・」と語る柿下さん。林道復旧までの間、森林組合の仕事を請け負うなど、急場を凌いでいる。
- 林道復旧には時間が・・・
そんな中、柿下さんを支えてきたのが、『文沢蒼林舎』と呼ばれる地元の自伐林家グループだ。このグループは、杉山さん、森下さん、柿下さんの3軒の林業家によって10年以上前に結成された。普段は各自の山で作業を行うが、大規模な伐採や木材の運び出しが必要な際には「結(ゆい)」と呼ばれる助け合いの仕組みで協力し合う。個人では難しい作業も、仲間の協力で進めてきた。結の精神は古くからこの地区に根付いており、地域住民の相互扶助の象徴でもある。
- 文沢蒼林舎による集材用架線
柿下さんが父親の寿一さんを61歳で亡くした後、結は特に大きな意味を持った。その時、柿下さんはまだ30歳。林業だけでなく、地域行事や冠婚葬祭といった役割まで背負うことになり、手探りで進む中で『文沢蒼林舎』の仲間たちの助けを受けた。
「杉山さんや森下さんには本当に助けられました。」と柿下さんは感謝の言葉を口にする。
- 文沢蒼林舎の森下さんと
取材中、『文沢蒼林舎』のメンバーである森下さんが通りかかったので、少しお話を伺った。森下さんによると、文沢地区は大井川流域と比べても土壌が肥沃で、スギがよく太り、成長が良いのが特徴だという。また風当たりが穏やかなため、木が風に揉まれず素直な木に育つのだそうだ。さらに、この地域の地名には水に関連するものが多いことも教えていただいた。たとえば、柿下さんと待ち合わせをした「下泉」駅や、柿下さんの山がある「文沢」、神社のある「谷所」、少し下流に位置する「壱町河内」など、どの地名にも水との関わりが感じられる。このことからも、人々の暮らしが水と密接に結びついている様子がうかがえる。
- 台風の爪痕を見つめる柿下さん
林業の現場では台風による災害の影響が色濃く残る。それでも柿下さんは前を向いている。
「昔があって今がある。だから林業を選んで良かったと思う。」
自然災害という試練に直面しながらも、36年間林業に携わり続けてきた柿下さんの言葉からは、林業への愛情と責任感がにじむ。自然と共に生きることの厳しさと、その中で培われた助け合いの精神。それは文沢の山々と人々の絆そのものではないだろうか。
森の恵みと向き合う椎茸栽培
木漏れ日が差し込むスギ・ヒノキの木立の下、柿下さんが案内してくれたのは椎茸栽培の現場。ここには3000の原木が並び、椎茸が育つための理想的な環境が整っている。椎茸栽培に適した環境は、直射日光が当たらず、適度な湿度があり、風通しが良い場所だという。
椎茸栽培の工程は自然と共にある。まず、秋の紅葉が終わる頃、コナラの木を伐採する。年が明けた3月から4月にかけて、その木に椎茸菌を打ち込む。電気ドリルと金槌を使う手作業だ。菌を打ち込んだ原木は1年間寝かせ、翌年の秋に椎茸が出る直前に立てかけて収穫しやすくする。この木から椎茸は5年間ほど収穫できるが、収穫量はその年の気候、特に気温と湿度に大きく左右される。
「たくさん出る年もあれば、あまり出ない年もあるんです。今年は特に夏場の異常な高温で収穫が良くない年です。」と柿下さん。収穫量が一定でないため、出荷量の調整は難しいという。椎茸菌には様々な種類があり、柿下さんは「春秋」という春と秋に出る菌を使っている。
- 椎茸の収穫
椎茸の乾燥も手間がかかる。椎茸の乾燥は昔の茶工場を改装した倉庫で行われる。収穫量が多い時は機械式の乾燥機を使用する。乾燥機の中には何段にも網が重なり、その上に椎茸を並べて温風で乾かす仕組みだ。収穫量が少ない時には、薪を使った伝統的な方法で乾燥させる。下から焚べた薪の熱が温風となり、椎茸をじっくり乾かす。
- 椎茸乾燥用の棚網
- 椎茸乾燥用の竈
椎茸栽培の現場にはシカやサルが来ることもしばしばだという。シカ対策にはネットを張り巡らせ、サル対策には爆音機を設置しているが、サルは集団で来ると音に慣れてしまうため効果は限定的だ。その対応に頭を悩ませつつも、知恵を絞りながらこの地での栽培を続けている。
- 獣害対策用爆音機
- 木漏れ日が差し込む椎茸栽培の現場
柿下さんが採れたての椎茸を手に乗せて見せてくれた。いただいたその椎茸をステーキにすると、濃厚な旨みと香りに驚かされた。柿下さんの丁寧な仕事が、この豊かな味わいを生んでいることを改めて実感した。
先祖代々の茶畑を守り続けて
初冬の柔らかな光が差し込む茶畑では、その畝がキラキラと輝く。柿下さんが育てる「やぶきた」の茶畑は見事に整備されている。川根茶は、関東地方に出荷されればその知名度の高さと出荷量の少なさから、流通してもすぐに売り切れてしまうという。
お茶の収穫は年に一度、5月の初めに行う一番茶のみ。かつては二番茶も摘んでいたが、茶価の低下を受けて取りやめた。現在、柿下さんは母親と二人でバリカン式の茶葉収穫機を使い、手作業で丁寧に摘み取っている。一番茶の品質を維持するため、春の肥料の施しからせん枝、夏場の病害虫防除、秋の整枝といった年間を通じた丹念な管理が欠かせない。
- 「やぶきた」の茶畑
柿下さんは「在来種」という特別なお茶も栽培している。しかしこれは自家用のみ。
「在来種は力強い味で本当に美味しいんですよ!」と嬉しそうに話す柿下さん。いただいたそのお茶には、確かに生命力を感じる風味と奥深い味わいがあった。
一方、柿下さんの茶畑の隣に広がる放棄茶園では、手入れがされないままのチャノキが伸び放題になっていた。
「耕作放棄地が増えて、景観の悪化や野生動物の棲家になってしまう問題もあります。」
昨今では嗜好品としてのお茶を飲む人が減り、生産量も縮小傾向にあるという。それでも柿下さんは先祖代々の茶畑とその味を守り続けるための手間を惜しまない。
- 茶畑を守り続ける
これから林業を目指す人たちに伝えたいこと
取材の最後に、柿下さんが案内してくださったのは、柿下家の山々を一望できる場所だった。真っ青な空の下、遠くに見える鮮やかな黄色の一帯を指差しながら「あそこはコナラとクヌギの人工林です。」と教えてくれた。皆伐後に椎茸の原木利用を考えて植えた場所だという。人工林といえばスギやヒノキを思い浮かべがちだが、柿下さんの山づくりには多様性があった。
- コナラとクヌギの森が見える
若い頃、街の暮らしに憧れたこともあったという柿下さんだが、今では林業を選んだ自分の人生を肯定している。
「この仕事はストレスがない、それが一番ですね!」と語る表情には穏やかな充実感があった。これまでの道のりを支えてくれた地域の人々への感謝の言葉も印象的だった。
- 柿下さんの森
そんな柿下さんが、これから林業を目指す若い世代に向けてこうメッセージを送る。
「どの職業にも大変な側面はあります。でも『石の上にも3年』と言うように、意志を強く持って続けていけば、きっと素晴らしい景色が見えると思います。それを乗り越えた先には、人生の広がりが待っているはずです。」
さらに、仲間の大切さにも触れ、「周りの助けがなければ今の自分はなかった。地域の中で支え合いながら生きることが、この仕事を続ける上での大きな力になります。」と語ってくれた。
恵み豊かな山の中で結の精神を大切にしてきた柿下さんの言葉には、自然と共に生き、地域と共に歩んできた感謝の気持ちが溢れていた。
- 自然と共に生き、地域と共に歩む