2025.12.16

山を守り、森をひらく ー
ふもとっぱらに見る林業とキャンプ場の相互作用
冬を待つ毛無山は、くすんだ深緑に覆われている。ところどころに生える広葉樹は、すでに色を失いつつある。山頂から富士山の絶景を一望できるこの山は、登山者の間では「富士山に登る前には、まず毛無山で練習する」と言われるほどの急峻さを持つ。
そのふもとの原っぱに広大な草原がひらけている。多くのテントが並び、焚き火の火が揺れる。ここは「ふもとっぱら」という名前で知られるキャンプ場だ。

- 冬を待つ毛無山

- ふもとっぱらキャンプ場
賑わいの中心から少し離れた場所で迎えてくれたのが、竹川大登さん。林業家であり、ふもとっぱらキャンプ場の後継者でもある。人気のキャンプ場を切り盛りする一方で、彼の視線はキャンプ場の内側だけでなく、外側にも向けられている。
この場所を支えているのは、唯一無二とも言える大絶景であり、そこに関わる人たちである。しかし本当にそれだけだろうか。この場所がなぜ続いているのか。その答えはキャンプ場を見守る毛無山と、そこに積み重なった時間の中にある。
ふもとっぱらの始まり、自然に触れる「入り口」をつくる
ふもとっぱらのある場所は、かつて東京農業大学の農場だった。約70年にわたり教育や実習、研究の場として使われ、2004年に元の所有者である竹川家へ返還された。林業に携わっていた父・将樹さんは、「現代人は、自然と接する機会が少なくなっているのではないか」と感じていたという。
木や森は単なる風景ではない。生き物の関係や、時間の積み重なり、人の暮らしとのつながりを学べる場所でもある。にもかかわらず、そうした場は生活から遠ざかりつつあった。

- 広大な農場の面影が見える
「自然に触れる入り口が必要ではないか」 その思いから、2005年、この土地でキャンプ場の運営が始まる。大登さんが13〜14歳の頃の話だ。細部までは覚えていないが、その頃の空気感は記憶に残っているという。
木や森を知ることは自然を知ること。木や森に触れ、自然の魅力を感じてもらうこと。ふもとっぱらは、最初から自然と出会うための入り口として構想された場所だった。しかしそれは手探りで始まり、試行錯誤を重ねながら形になっていった場所とも言える。

- 手探りで形作られた場所
キャンプ場が「制限」を選んだ理由
富士山が見える広大な草原。その魅力は、想像以上のスピードで広がっていった。ふもとっぱらは、口コミやSNS、イベントやアニメでの影響によって急速に人を集め始めた。だが、賑わいと引き換えに、限界も見え始める。キャンプ場としての知名度が上がるにつれ、問題も増えていった。
当初、ウェブ予約はなく、電話対応と飛び込み利用が常態化し、安全面への不安やクレームが増えていった。
「際限がなくなっちゃって・・・このままでは危ないし、続かないな」そう感じていたという。
そこで導入したのが予約システムだ。予約制というある種の制限を設けることは、簡単な決断ではない。コロナの2年前のことだった。
「予約を取るようにしてから、クレームはほぼなくなりました」

- 受付にある設立20周年の額
その後、コロナ禍が訪れる。結果的に、早めの決断が功を奏した。予約制は人の流れを可視化し、運営の安定につながった。偶然ではあるが、制限することが、場所を守ることになった。理想と現実の間で揺れつつも、仕組みを変えるタイミングを逃さなかった。
表に見える顔、キャンプ場という「入り口」
今、ふもとっぱらは年間25万人が訪れるキャンプ場だ。だが大登さんは、ここを単なる目的地だとは考えていない。自然に触れ、自然とつながる「入り口」だという。そのひとつに、キャンプ場内の施設には、毛無山から伐り出された木材が数多く使われている。

- 毛無山の森
毛無山荘は、東京農大時代に学生宿舎として使われていた建物を、コロナ禍の休業期間に改装した。かつては50畳の大部屋が4つ。それを、家族5人が泊まれる8部屋に分けた。腰板には、毛無山の天然乾燥材のヒノキが使われている。部屋には「胡桃」「欅」など、それぞれ木の名前が付けられ、窓からは富士山が見える。
「キャンプって、一歩を踏み出しにくいですよね。そんな方たちには、まずここを拠点にしてもらえたら。安心できる拠点があることで、より自然の中での生活を楽しめると思います」

- 毛無山荘
売店には、薪、炭、木工製品、ジビエ(鹿肉)、ビールなどが並ぶ。ゴミ袋を販売し、ゴミをゴミステーションで回収するなど、利用者が安心して滞在できる仕組みも整えられている。必要最低限から始めた品揃えは、スタッフのアイデアや地域との関係の中で広がっていった。

- 売店の様子

- ゴミステーションの様子
草原中央トイレの天井には、ヒノキの大径材が使われ、釘や金具を使わない伝統工法によって見事に組み上げられている。中央の通路に立てば、東に富士山、西に毛無山を望むことができる。まさに、自然とつながる「入り口」を体感できる場所のひとつだ。

- トイレの梁とその向こうにはキャンプ場と富士山
林業という背骨、すべては山から始まる
ふもとっぱらの収益の柱はキャンプ場だ。だが、基盤にあるのは林業である。およそ700haの毛無山を管理し続けるのは、並大抵の努力ではないという。間伐などの山の管理は、キャンプ場の繁忙期の合間を縫って、主に冬に行う。
林業を行っているからこそできる取り組みが、間伐材の有効活用。間伐材のうち、市場に出しづらいものは薪になる。その量、年間およそ1000立米以上。1か月で積み上げた薪が消えることもある。

- キャンプ場内にストックされている薪
2010年頃から、鹿による被害が目立つようになった。増えすぎた鹿は、年間300頭ほどを地元猟師から買い取り、肉はジビエとして処理、加工される。売店で調理食材として販売されたり、食堂でハンバーガーなどのメニューとして提供される。また可食部以外は犬用ジャーキーにする。鹿革もアクセサリーやキャンプグッズに生まれ変わる。 この取り組みを続けていることで、最近は鹿の群れが少なくなってきたと感じるという。

- 鹿肉の加工現場

- 売店で販売されているジビエ
「もしも林業がなかったら、キャンプ場は成り立ってないと思います」
実感のこもった言葉だった。
山の恵みが確かにキャンプ場を支えている。林業とキャンプ場は、互いが維持していくためにそれぞれが作用し合っている。
毛無山と竹川家の500年
竹川家の歴史は、およそ500年前までさかのぼる。採金の技術に優れた竹川家は、この地で金山の管理や土木に関わっていた記録が残る。今でも山中には金の精錬所跡や炭焼きの痕跡が見られるという。
お寺の火事で過去帳は失われ、大登さんが何代目なのかは正確にはわからない。
「父が28代目と言っているので、それを信じるなら、僕は29代目ですね」
今川義元の時代、毛無山の麓は「麓千軒」と呼ばれるほど栄えていたそうだ。武田氏、北条氏、徳川氏と支配者が変わっても、竹川家はこの地で金山を守り続けた。
しかしやがて金山は衰退し、山崩れによって採掘は不可能となる。江戸時代には「麓三軒」と呼ばれるまでになったという。
そして竹川家は、幕府直轄林である富士山御林の管理を担う「御林守」となった。
時代に合わせて山との関わり方を変える。竹川家には常に、「山の恵みを使いながら山を守る」道を選んできた歴史がある。

- 竹川家
戻らなかったはずの場所へ、大登さんの選択
大登さんは、最初から家業を継ぐつもりだったわけではない。豊かな自然環境の中で育った子ども時代、大登さんが強く興味を持っていたのは、生き物だった。
大学では分子生物学を専攻し、青森で過ごした。目に見えないレベルで生命の仕組みを解き明かす世界は、純粋におもしろく、実験や研究に打ち込んだという。少なくとも当時の大登さんにとって、将来の選択肢の中心に林業はなかった。
「出たっきりで、戻ってきたくはなかったですね」
転機は、就職活動の時期に訪れる。ふと、頭をよぎった気持ち。
「もしかして、帰る必要、あるかな?」
その後、岐阜の森林文化アカデミーへ進み、林業と経営を学んだ。戻るためではなかったはずだが、結果として戻る準備をしていた。
卒業後、静岡県森林組合連合会での勤務経験を経て、2016年に株式会社ふもとっぱらへ入社した。

- 大登さんの仕事は多岐に渡る
現在は総務部長として多くの業務を一手に引き受ける大登さんだが、会社の社長は父・将樹さん。
「もし父が私の仕事に点数をつけるとしたら、きっと20点か30点でしょうね」と自己評価は辛口だ。
林業家であり経営者である将樹さんと、その後継者である大登さん。受け継ぐということは、形をそのまま引き継ぐことではない。やり方をそのままなぞることでもない。時代も、社会も、人の価値観も変わる中で、何を変え、何を変えずに残すのかを考え続けること。
大登さんにとって、戻らなかったはずの場所は、今もなお、答えを探し続けるための修行の場になっている。
森をひらく、外からの視点が教えてくれたこと
ふもとっぱらでは、キャンプ場での滞在だけにとどまらず、周囲の広大な森林を利用して様々な取り組みを行っている。
散策路やサイクリングコースを整備しているのは、キャンプに来たお客さんに森の中で過ごす心地よさを感じてもらい、少しでも森に興味関心を持ってもらうため。
「ここは、広葉樹と針葉樹とを見比べられる場所に道を作ってあるんです」と大登さん。取材を行った12月、散策路の片側は広葉樹の葉が落ち、大きく空が見えている。もう片側は針葉樹の葉が残り、その隙間に太陽の光が差し込んでいた。違いを発見しながら散歩するのもきっと楽しいだろう。
他にも、森の中での映画鑑賞や瞑想体験、ウェディングパーティーを行ったこともあるそうだ。
自然を消費する場から、自然との関係を結ぶ場へ。

- 散策路

- ウェデイングパーティーが行われた森
その象徴が「テルモの森」だ。
富士山麓に工場を置く医療機器メーカーのテルモは、事業活動で利用する地下水を守るため、森づくり活動を続けている。水を使う企業だからこそ、水を生む森を守る。その活動の舞台が、ふもとっぱら所有林だ。下刈りや枝払い、植樹といった森林整備に加え、親子で楽しめる木工教室、腐葉土づくり、植物や昆虫の観察など、地域と共に森を育てる活動が行われている。
森は、閉じた管理対象ではなく、人と関わり続けることで健全さを保つ存在であることを、この取り組みは教えてくれる。

- テルモの森
大切にしているのは、教えることではなく、一緒に森を見ること。
「林業をやっていると山や森のプロって思われますけど、全然そんなことなくて。外から来た人が『素敵だな』って感じる感覚が、山や森の新しい価値に気づかせてくれることもあるんですよ」
一緒に森を見ること。それが、森をひらく方法だった。
大登さんは、これから先、より積極的に情報発信を行い、自然環境を案内できるガイドの育成にも取り組んでいきたいと話す。ただし、何かを一方的に教えたいわけではない。山や森を前にして、同じ景色を見て、同じ時間を過ごす。その体験が、人と自然との関係を少しずつ変えていくと信じているからだ。

- レストランの窓から景色を楽しむ人々
ふもとっぱらは、完成された場所ではない。
自然と人が出会い、関わり続けるための「入り口」であり続けようとしている場所だ。
その入り口がある限り、人はまたこの場所に戻ってくる。
【ふもとっぱら】
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